OTHER 2026.04.01

愛媛県初の西洋灯台を訪ねる島旅「釣島」

愛媛県松山市の西には、9つの有人島からなる忽那諸島が広がっています。以前、フェリーと高速船を乗り継ぎ、3日間で7つの島を歩いたのですが、航路と時間の関係で渡れなかった島がありました。今回は、忽那諸島の主島・中島に泊まりながら、未踏の釣島を訪れる旅のレポートをお送りします。

井月 保仁 [いづやん]
(島旅フォトライター)
いづやんのペンネームで活動する島旅フォトライター。大学在学中に訪れた小笠原で島に魅了され、以後ライフワークとして日本の離島を巡り、島旅ブログ「ISLAND TRIP」にて旅の様子を書き綴る。島の魅力を伝えるべく、Webメディアや雑誌、イベントなどで活躍。有人離島182島を巡っている(2025年5月現在)
松山市の三津浜港からフェリーに乗り、忽那諸島の中島を目指す

愛媛県松山市の西側、三津浜港にレンタカーで着くと、フェリーに載せる車の列ができていました。受付が開くまでのあいだ待合所を歩くと、和紙で作った柳井の金魚ちょうちんが揺れています。三津浜港は忽那諸島だけでなく、山口県柳井市まで行く航路の玄関口でもあるのだと気づきます。

やがて乗るフェリーが港に到着し、合図とともに車列がフェリーへと吸い込まれていきました。船員さんの誘導に従って車を止め、客室へ上がり、最前列の席に腰を下ろします。16時前に船は出港、三津浜の岸壁が少しずつ遠ざかっていきます。風もなく、船に乗っていることを忘れそうなほど揺れもありません。朝が早かったのでいつの間にか眠ってしまっていました。

海を眺められる宿の部屋で落ち着く

目が覚めると、中島が近づいてきていました。17時過ぎに船は中島の玄関口・大浦港に接岸、下船してそのまま宿へと向かいます。今回泊まったのは島随一のビーチ・姫ヶ浜そばの「THE BONDS」です。かつて民宿として続いてきた場所ですが、洒落た建物に生まれ変わり、ゆっくりとくつろげる宿になっています。

海が見える部屋を選んでいたこともあり、しばらく窓から見える姫ヶ浜を眺めてのんびり。屋上にも上がってみると「時間が許すなら予定を詰めずに、海を眺めながらただぼーっと座っていたいなあ」と思える場所でした。

夕方、目の前の姫ヶ浜を歩きに外へ出ました。浜へ入る手前の柑橘畑で作業していたおばちゃんに声をかけると「甘平を育てよるんよ」と笑って教えてくれました。甘平は少し大きめで平らな見た目の柑橘。ここ中島は、「育たない柑橘はない」と言われるほどの柑橘王国。以前訪れた時は冬で、島中いたる所で色んなミカンが実っていたのを覚えています。

姫ヶ浜は夏休み最後の土曜日ということもあって、思ったより静かでした。空はあいにく曇天ですが、砂浜の白さはよく分かります。浜の向こう、海の上にぽっかりと浮かぶ島影は、明日渡る予定の釣島です。目を凝らすと、島の右側に灯台の明かりも見えました。以前の旅では行けなかった島にやっと行けると思うと、やはり少しずつ興奮してくるものです。

釣島に渡るには、西線のフェリーに乗る必要がある

翌朝。泊まった部屋のカーテンを開けると、少し曇っています。それでも、起きてすぐ海が見えるのは気持ちがいい。朝食を済ませて宿を出発し、車で海岸沿いを西へ10分ほど走り、神浦港へ向かいます。待合所でチケットを買い、船が来るのを待ちます。釣島のような小さな島は、自販機すらないことがよくあります。夏場の島旅は、飲み水持参は必須。もちろん待合所で買っておきました。

忽那諸島の島々に渡るフェリー・高速船は、松山市西側の三津浜港か高浜港から出ています。それらの便は、中島の東側を行き来する「東線」と、西側をカバーする「西線」に大きく分かれています。今回渡る釣島は、そのうち「西線のフェリーのみ」が就航しています。以前も西線の航路を使ったことはありますが、その時は二神島から高浜港に戻る高速船だったので、釣島には寄らない便でした。

釣島の港に降り立ち、集落を歩く

神浦港には、松山へ出るだろう人たちが集まっていました。やってきた三津浜港行きのフェリーに、島人たちと乗り込みます。7時45分に出港した船は、今日も穏やかな海を滑るように進みます。「瀬戸内海は本当に島がたくさんあるなあ」と感慨深く景色を見ていると、こんもりとした島影が浮かび、釣島が近づいてきました。昨日姫ヶ浜から光が見えた釣島灯台は、近くで見ると岬ではなく島の中腹にあるのが分かりました。

およそ25分で釣島に到着。船を降りたのは自分だけでした。接岸作業を手伝っていた島のおばちゃんから「帰りの便のチケットも、先に買っていきなさい」と声をかけられました。続けて、「帰りの船が出る15分前には戻っておいで。港に人がおらんと、船が停まらんこともあるけん」と教えてくれました。港に誰もいないと、おばちゃん宛に船から電話がかかって確認するのだそう。ここ瀬戸内海の船は、ときに「バスのように」待つ人がいてはじめて停まるのだ、と思い出しました。ありがたくお礼を言い、歩き出します。

集落は海岸沿いに細長く続いていました。コンクリの建物が目立ち、空き家もちらほら。小さな五十鈴神社があり、校庭のある学校もありましたが、今は休校しているようでした。島の人とはたまにすれ違う程度。海岸沿いの道は、やがて山の方へと上る緩やかな坂道に変わっていきました。途中、斜面に植えられたミカン畑越しに、さっきまでいた集落と海が一望できました。一息つくにはいい場所です。

明治初期の姿を残す、釣島灯台

港から15分ほど歩いてきました。坂の途中、ミカンの木々の合間から灯台が姿を現しました。周囲に人影はなく、畑を横切る石段を登ると、白くて可愛らしい釣島灯台の目の前に到着です。釣島に渡る時に「この灯台はぜひ間近で見ておきたい」と思ってここまで来ました。

釣島灯台がなぜこの場所にあるのか、景色を見ながら納得しました。釣島を含む忽那諸島は、安芸灘と伊予灘を繋ぐ位置にあり、釣島の北にある釣島水道は多くの船が行き来する重要な航路です。島が点在し潮が速い難所として知られる釣島水道を安全に通るための道標として、この島のこの場所に灯台が建てられた理由が腑に落ちました。

釣島灯台は初点灯が1873(明治6)年。愛媛県初の西洋式灯台で、日本に現存する9番目に古い灯台です。設計は明治政府に招聘された英国人技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンで、初代灯台長も英国人だったそうです。ブラントンは各地の灯台を設計し、「日本の灯台の父」とも呼ばれています。この灯台は忽那諸島の北に位置する倉橋島の御影石を用いて建てられ、150年以上瀬戸内海の難所を照らし続けてきました。数字で振り返るほどに、この小さな灯台が背負ってきた時間の長さを感じずにはいられません。

また、明治期に築かれた灯台約120基のうち、現在も稼働している64基のひとつでもあります。釣島灯台はその中でも大きな改修を受けずに当時のままの姿を残しており、海上保安庁が選定した歴史的・文化的価値が高い「保存灯台」の最上位(Aランク)に選ばれています。さらに国の重要文化財や、近代化産業遺産にも選定されているのです。

灯台自体は高さ10mほどですが、高台に位置しているためその役目を立派に果たしています。島に宿がないため夜中にその光を間近で見られないのは、少しだけ残念です。だからこそ、前日に中島から見えた灯台の光は、印象に残るものでした。

花崗岩が美しい西洋建築、釣島灯台旧官舎

灯台そのものもとても良かったのですが、隣に残る旧官舎と倉庫がとにかく立派で目を引きます。あとで調べると、明治期によくある「西洋風建築」ではなく、純然たる西洋建築として建てられたということを知って、さらに驚きました。こちらもブラントンの設計だそうで、4家族が住めるほどの規模を誇ります。敷地内を見学することはできましたが、建物の中には普段入れませんでした。かろうじて、扉に窓穴のあるトイレをそっと覗くと、様式と和式が並んでいるのが見えました。旧官舎と灯台の周りを何周もしながら写真に収め、船の時間が迫っていたので港に戻ります。

港の待合所で船を待っていると、さきほどのおばちゃんが戻ってきて旧官舎について教えてくれました。年に数回、松山市が見学会を開き、その時に内部を見学できるそうです。また、この旧官舎はかつて「四国村」へ移築する計画が持ち上がったそうですが、島民は現地保存を希望したのだとか。「これ持っていかれたら、島には灯台しか見どころがのうなってしまう。持っていかんでくれ、とみんなでお願いしたんよ」とおばちゃんは当時のことを教えてくれました。1998(平成10)年までの3年間で解体復元工事を行い、あの美しい石造りの官舎はその姿を島に残すことになったのでした。ちなみに、四国村には小さい復元模型があるそうです。

人口40人ほどの静かな漁村の島に、そんな産業遺産が残されていたことを知って、「やっぱり島は来てこそだな」と旅の感慨を新たにしました。港で海を見ながらそんな話をしていると、船がやってきました。自分以外に子供連れの女性が乗り込むようで、「自分だけのために船が島に寄るのでなくてよかった」と内心ちょっとだけ安心しました。島の人が利用する航路なんだと、勝手な親近感を持ちつつ船に乗り込みます。遠ざかる釣島の灯台に目を向けると、まだ明かりが灯るには早い時間。それでも、島の中腹でいつも白く輝いているように見えたのでした。