瀬戸内の多島美を一望できる
柱島群島の中心に浮かぶ島
SHIMA INFORMATION

中国エリア/ 山口県
柱島 はしらじま
- 面積
- 約3.13㎢
- 人口
- 108人(2024年時点)
- 観光スポット
- 赤禰武人の墓、賀茂神社、浦庄の浜、金蔵山
- 特産
- ひじき、さつまみそ、ふわ汁
- アクセス
- 岩国港から高速船で約1時間
柱島 hashirajima
四季を通じて釣りやキャンプ
登山客が訪れる風光明媚な島
岩国市の南東の海には柱島群島と呼ばれる12の島があります。その中でも有人離島は3つで、一番人口が多く、面積が大きいのが柱島です。多島海の美しい景観の中に浮かぶ島で、一帯は瀬戸内海国立公園の区域に指定されています。島には多くの神様が祀られていて、神様を「柱」と数えることから、柱島と呼ばれるようになりました。神武東征にゆかりのある神社と伝えられる「賀茂神社」は、応神天皇、神武天皇、五十鈴姫命を祭神とし、ほかに金毘羅宮、出雲大神など88柱の神々が祭られています。島の最高峰である金蔵山(きんぞうざん)の山頂へは、港のある麓から約40分で行くことができます。標高約280m付近の展望台からは瀬戸の多島美が望め、空気の澄んだ日は四国まで見えることも。その美しい景観から「しま山100選」にも選ばれています。島の南端と北端はどちらも約1kmにわたる白砂の浜が広がり、夏季には多くの海水浴やキャンプ客が集まります。また南端から続島に向かって延びる「州の鼻」は、風向きによって洲の形や向きが大きく変化します。古くから島の産業は農業や漁業が中心で、新鮮な野菜や魚を出荷しています。
奇兵隊の総督も務めた
赤禰武人ゆかりの地
柱島には鎌倉時代から人が住んでいた記録が残っています。当時は京都の賀茂別雷神社 (上賀茂神社)の土地(荘園)であったとする史料が残るため、平安時代以前から人が住んでいたのではないかと考えられています。戦国時代、武将であった毛利元就(もとなり)と陶晴賢(すえはるかた)が戦った厳島合戦で、毛利軍に味方した瀬戸内海の海賊である村上水軍•村上武吉が柱島を含む領地を手に入れました。その後、関ヶ原の戦いの際に周防を訪れた吉川氏の領地となり、岩国藩となりました。当時の島では塩やムシロ(ワラやイグサなどの草で編んだ質素な敷物)などが作られ、岩国藩で盛んに行われた干拓に使われる石も島から運ばれたものが使用されていました。また、明治維新で活躍した高杉晋作らとともに奇兵隊を結成し、第3代総督にもなった赤禰武人(あかねたけと)が生まれた島としても有名です。柱島港から少し坂道を登ったところにある西栄寺には、赤禰武人の墓があり、生家跡や石碑も残されています。太平洋戦争の時には日本海軍連合艦隊の停泊地となり、戦艦「陸奥」の爆発によりたくさんの犠牲者が出たことでも知られています。沈没後に多くの遺体が流れ着いたといわれる「浦庄の浜」には、その遺骨を納めた墓が設けられています。
柱島群島で受け継がれる
「おせったい」の文化
柱島群島周辺で行われている「おせったい」は、弘法大師ゆかりの霊場を巡るお遍路さんに食事や宿泊のお世話をしていた習慣の名残で、弘法大師が「功徳は接待である」と説いたことが元になっていると言われています。年2回、4月と8月に行われ、島内にある祠やお堂に参られた方へのお世話として、お餅やお菓子などを配るもので、昔は島の多くの子どもたちが楽しみにしていた行事でした。10月第2土曜日には「賀茂神社」で秋祭りが行われます。五穀豊穣、地区安全などを祈り、当日は白装束を着た男性が神輿を担ぎます。昔は20歳で成人を迎えた人や厄年の人が担いでいましたが、人口減少により近年は年齢に関係なく若い人たちが担いでいます。また太平洋戦争中には連合艦隊の泊地となり、空襲や機雷の投下など被害が大きかった柱島。島の最高峰である金蔵山には海軍の見張所が置かれていました。中でも島の南側海域で原因不明の爆発が起こった戦艦「陸奥」での事故は、数多くの犠牲者を出しました。犠牲者の冥福と平和への祈りを捧げるため、犠牲者の遺骨が納められた「浦庄の浜」では毎年6月8日に追悼法要と慰霊祭が行われています。
情報提供/岩国市産業振興部観光振興課