バトンを紡ぐ
自分たちらしい酒造り
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久米島沖縄県
米島酒造株式会社 4代目
田場 俊之
TOSHIYUKI TABA
暮らしの一部だった
酒造りを受け継ぐまで
1948年に創業した米島酒造の4代目になります。 元々は久米島から出て沖縄本島で働いていましたが、祖父と父の体調が悪くなった事をきっかけに久米島に帰りました。でも、体調が悪いのは一時的で、祖父も父もすぐ元気になったんですよね(笑) 小さい頃から麹に触れ、もろみの撹拌作業など休みの日は家業の手伝いをしながら過ごしてきました。 そのため、酒造りはいわば暮らしの一部だったと思います。日々酒造りを学びつつ、酒造組合の利き酒の集まりや講習会に参加し、さらには泡盛から焼酎、日本酒など各蔵元をまわり、いろんな話を聞かせてもらいました。見て聞いて学んだことを、自主的に酒造りで実践した結果をメモに書き、卓上にあるものと現場との違いがどうなるのかを追求していきました。 美味い酒はどうやったら造れるのか単純に固定概念がなかったので、楽しみながら挑戦を続けことができたのだと思います。
酒造りは進歩なくして未来はなく、
伝統なくして魂は宿らない。
先々代から続く技術を大切にしつつ、温故知新も心がけています。 米島酒造のマークには、舞う蛍と止まっている蛍の明かりをロゴの中に組み合わせて、静と動を表現し、光を毎年繋ぐ思いを込めています。あるプロジェクトに参加し、そこで知見を得て複数回蒸留の酒造りに挑戦しました。もろみからの3回蒸留に留まらず、熟成の工程やブレンドの手法を工夫し、蒸留のプロセスにも独自のアプローチを加えています。ただ非常に繊細で神経を使うため、一つのお酒を造っても定着させていくのは大変です。またスタンダードなお酒の味を変えすぎた時は、地元のお客様から意見をいただいた経験もあります。 その時は、味をガラリと変えるように造ったので当然ですよね、反省しました。酒の品質も人の味の趣向も変わってきているので、許容できる範囲で少しずつ変えていくことは意識しています。色々と造っていきながらも、味が軽すぎる、香りが立ちすぎる、味が濃すぎるなど島のお客様からは、直接フィードバックをいただけるのでとてもありがたいです。
米島酒造でしか造れない
酒質造りを探求し続ける。
私は泡盛が好きなので、その範疇で色んな泡盛を目指していきたいと思っています。泡盛は戦前の文献や伝承など戦争で失われた情報も多いのですが、逆に未知の領域もあり伸びしろがあると思っています。今の酒造りは単純に自分が好きな酒質を目指しています。他社のお酒と似ているよねとか言われない、自分たちらしい味を目指しています。 グラスに入った時の香りは穏やかで、口に含んだ時の香りはしっかりということを一番意識していますね。 ろ過を軽くすることで、泡盛の栄養分が表面に膜をはって香りを閉じ込め、それが口に含んだ時に口中の温度で膜がはじけてしっかりと香りが感じられるように造っています。色々な料理に合い、飲み疲れもしない、そんな日常的なお酒を意識しているのもポイントです。
継承とは、時を超えて文化を紡ぐこと。
同時に、それは新たな文化を生む
突破口の役目もある。
これから、東京農業大学で醸造を学んでいる息子が帰郷し、一緒に酒造りを始める予定です。私は経験を重ねながら直感を大切にする職人気質ですが、息子は醸造学や酵母についての専門知識を持つ理論派。 そんな対照的な二人が肩を並べて酒を造るのが、今から楽しみでなりません。現在、私は息子に頼まれて月桃など久米島特有の花などいくつかを息子に送っています。 彼は東京で酵母を採取しており、帰ってきたら久米島産の花酵母でお酒を造りたいと、息子と一緒に構想を膨らませています。彼は田舎だからこそ酒造りからパッケージまで一から十までこだわった高品質なお酒を創るのが、これからの時代には必要になると意気込んでいるので楽しみです。そんな5代目に継承していくためにも、私はあらゆる可能性を秘めたお酒をたくさんストックしています。彼が知識に基づいて、あらゆる方向に目を向け、可能性を広げられるように、次の世代に向けてつないでいくお酒を残すのが私の仕事なんですよね。
創業は琉球政府時代の1948年、初代が7名の仲間と共に「米島興業合資会社」を設立。久米島蛍が生育する白瀬走川の良質な水を利用し、家族で力を合わせて創業当時から手造り一筋で味も製法もこだわり続けて酒造りを行っている。米島酒造の泡盛は、慌てずゆっくりと時間をかけ丹精込めて造りあげた泡盛です。